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1月の高校朝礼

2014/01/20

今日の校長講話は「サムライ」について

 

朝礼1

 

現代でも、サムライ・ジャパンやサムライ・ニッポン…というように「サムライ」という言葉がよく使われ好かれています。特にスポーツチームでは勇ましさの象徴のように使われている気がします。

本当の サムライ(侍)は”武士”とか”もののふ”とも言いますね・・・しかし今でも外国の一部では、”ハラキリ”とか”ニンジャ”とかそんなイメージを持っている人もいるとかいないとか。

ハラキリというと異質な感じがしますが、いわゆる切腹は一死(一命)をもって自らの責任を取る。だから、その生き方は厳しく「武士道」に通じる。サムライには「覚悟」が必要で責任ある行動が求められる。

侍はまた「恥」を嫌う、と言われます。だから、卑怯なふるまいや例えば背中から斬られたりする(逃げる!)とそれはもう大変!!「士道不覚悟」と呼ばれて面目をなくし武士の資格を失ってしまう…!!

一方で勝者と敗者の間には「武士の情け」という言葉もあります。単なるやさしさではなく、敗者への気づかいと名誉を重んじることと解釈したほうがいいかもしれません。  

朝礼2

 

さて1914(大正3)年頃、第一次世界大戦のときの話です。 今から100年前、明治維新から約50年後の時代ですから武士道は軍人に引き継がれ、日本はドイツと中国の青島(チンタオ)で戦い、結果約1000名のドイツ兵が捕虜(当時は、俘虜と呼ばれていました)となり、徳島(四国)にある「坂東俘虜収容所」に収容されました。当時の日本では捕虜になることをと思っている人が多かったのではないかと思います。「生きて虜囚の辱めを受けるな」という考えが(もっともこの言葉は時代が下ると明確になってくる)あり、したがってドイツ人捕虜のことを理解できなかっただろうと容易に想像できます。       

この坂東俘虜収容所に松江豊寿なる人物がいました・・・この収容所の責任者で所長(当時、陸軍大佐)です。彼の父は元会津藩士で、会津藩士といえば戊辰戦争で敗れた藩の侍。その子である彼もまた辛酸を舐めたと言われています。だからこそ、ドイツ人捕虜に対して敬愛をもって接し、制約の中でもある程度の自由を与えたり地元民との交流を許していました。(地元民からは、親しみを込めて”ドイツさん”と呼ばれていたそうです)  海水浴を許したり、施設内で商売もできる。彼らは職業軍人ではなく、様々な仕事をもっている。印刷や製パンなどドイツの技術を地元の人々も学ぶことができたようです。

・・・・・ (中略) ・・・・・

当然ながら、松江所長は上から睨まれる。しかし陸軍省で彼は、「収容所は刑務所ではない、彼ら(ドイツ兵)は祖国のためにりっぱに戦ったものたちだ!!」と主張。当時は薩長閥が強く、会津出身の彼は立場も弱かったはずだし、いじめられたことでしょう。

そうした苦労の結果、坂東ではドイツ人との間に信頼関係が芽生えていったようです。展覧会をやったり交流が盛んになってきたころそして終戦。捕虜たちはドイツに帰国することに。今までの御礼にとドイツ人たちは楽団をつくり、ベートーベンの「第九交響曲」を演奏、合唱しました。日本で初めて第九が演奏されたのです。今でも日本人は年末になるといたるところで演奏、「歓喜の歌」として好きなんですね。

さてその後帰国したドイツ人が、第二次世界大戦でソ連の捕虜になった・・・彼は言う、『世界のどこにバンドウのような収容所があっただろうか、世界のどこにマツエのような所長がいただろうか…!』と。そう言わしめた松江所長、その後押されて会津若松市の市長となり80歳過ぎまで生きたそうです。

サムライって重いなあ!!

日本で生まれたスポーツ、柔道や剣道、相撲などはを重んじます。(大相撲は神事の部分もあり、作法がありますね)

勝者の態度も、剣道では試合に勝ってガッツポーズして大喜びすると、勝ちが取り消されたりしますね。

 

最初に役員任命(正副級長・保健体育委員)と表彰伝達(剣道部・バドミントン部・書道部)を行いました。

役員任命   表彰伝達
役員任命   表彰伝達

 

 

関連項目:坂東俘虜収容所物語

    バルトの楽園(松平健主演、東映)

 

               

 

 

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